褒姒
褒姒は西周幽王寵愛の妃、中国歴史で文献に記述がある最初の美人、生年月日不詳。古褒国(今陝西省漢中西北)の人で、褒姒という名前は姓が姒で褒王によって献上されたことによります。
褒姒は捨子で、小さな商売を営む男に拾われ、褒国(今陝西省漢中西北)で育てられました。褒姒の出生については奇怪な言い伝えがあります。西周の歴王年間、後宮の50歳の宮女が突然子供を生み落とします。この宮女の話によると、夏桀王朝の時、二神竜が突然皇宮に現われ、口からよだれを流し自ら「褒城二君」と称します。夏桀は人に命じて金の盆を持ってきて竜の涎を箱に隠しました。800年余りの後、周歴王が即位すると、箱から少し光を漏れ出ているので歴王が一人の宮女に箱をあける様に命じます。すると箱から一匹の虫がこの12歳の宮女の体に付着します。まもなくして宮女の腹が膨らんできます。歴王は宮女が夫がいないのに妊娠したことをいぶかしみ、禁宮に閉じこめます。40年後、平宣王が即位すると、宮女は女子を産みおとします。宣王はこれをひどくいぶかしみ、宮女を妖言で人々を惑わす国難の象徴だと考えます。宮女を清水河辺で殺害し、嬰子はござで包み川に捨てられますが、沈むことなく流され、飛んできた鳥の群れが翼で嬰子を太陽から遮り、嘴でござをくわえて岸まで運び、桑を買いに来ていた男に救われます。この女の子が褒姒です。
前779年(周幽王3年)、周幽王は褒国を討伐すると、褒王は美人褒姒を献上して許しを請います。幽王はこれを許し、褒姒を手中の珠のように寵愛します。申后と太子宜臼を廃し、褒姒を后として、褒姒の息子伯服を太子とします。太子の母親は申侯の娘で、申后が立腹し、褒姒を害そうとしますが果たせず、息子宜臼を田舎に派遣し褒姒の養父を殺害しました。褒姒は養父が殺された報せを聞いてひどく恨み、幽王の寵愛・贅を極めた暮らしでも、入宮10年笑顔を見せることがありませんでした。幽王は「もし誰か褒姒を笑わせることができるなら、黄金千両を与える。」という命令を下しました。大臣・虢虎(一説には虢石父)が中国古代歴史有名な「烽火戯諸侯」という策を提案します。古代、烽火台は重要な軍事防御施設で、烽火で重要な軍事情報を伝える為のものです。周幽王は褒姒と驪山に遊んでいる時、烽火を上げます。諸侯が兵馬を率いて危急に駆けつけ、周幽王に何事もないことを知りむなしく戻っていきました。この様子を見た褒姒が笑いをもらすと幽王は大喜びしました。前771年、犬戎が進攻し、幽王烽火を上げますが、諸侯は前例がある為集まらず、幽王は殺され、褒姒は囚われました。危急のための烽火台を周幽王は美人の笑顔を見る為に利用してしまい、国を滅ばしてしまう話として有名です。