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貂蝉

貂蝉は中国古代美人の一人、西施、王昭君、楊貴妃と並び中国古代四大美人の一人に 数えられています。陝西省米脂の人、姓は任、小字は紅昌です。後に、大臣が着用する貂蝉(漢代官吏たちの帽子の飾りもの)冠を管理した為、貂蝉と改名しました。

貂蝉は幼い頃から才能が秀で、容姿が美しく、細柳のような立ち居振る舞い、聡明優雅で、傾国傾城の美人でした。15歳で、選抜され宮廷に入り、後に司徒王允の養女となります。東漢(25—220)末期、朝廷の政治が不安定になり、各地が戦争が続き、董卓は権利を掌握しました。暴虐の限りを尽くす董卓の政権を覆すため、義父王允の頼みを受け、貂蝉は連環計(連環美人計)という謀を演じます。 貂蝉はひそかに呂布に秋波を送るとともに、董卓にも媚を売り思わせぶりな様子をとり、二人の間でうまく董卓と呂布の仲を引き離し、終には呂布が董卓を殺し、董卓専権の暗黒時代が終わり、混乱していた朝廷はやっと安定の兆しが見え始めました。

貂蝉は絶世の美貌を持ち「閉月」とい伝説が伝えられています。一説には、貂蝉は夜中に月を拝すると、月に住む嫦娥は貂の美貌に及ばないことを恥じ、あわただしく雲の中に隠れてしまったと言われます。貂嬋は公園で月を拝すると、忽然として軽い風が吹き、吹き寄せられた雲に明るい月が遮られました。王允はこの様子を見て、「私の娘は月より美しく、月が雲の中に隠れてしまう」と自分の娘の美しさを褒め称えたとも言われます。人々はだんだん「閉月」という言葉で貂蝉の美貌を形容する様になりました。

現在、山西省忻州市東南3キロメートルの木芝村に貂蝉陵園があります。この園は4,000平方メートル余りを占め、周りは紅い底の黄色い瓦で作られた竜を象ったが壁が波形に廻らされ、あたり一面の麦畑のなかで目を奪います。門に「貂蝉陵園」と書かれた扁額を掛けられ、両側に「閉月羞花」という額があります。

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